メッセンジャー米村泰彦さんを想う


私達の娘達のパネルですと、床に置きますと
皆さんの腰元にも届かないような大きさですが、
この二十歳の青年になりますと、見上げるような立派な体格になっています。
大阪に住んでいた、十年前に交通事故で亡くなられた青年なのですが、
彼のトレードマークはどこの会場でもいつの季節でも
この紫色のマフラーを巻いていることです。
事故の当日の朝、
このマフラーをご両親に見せびらかしていたそうなのですね。
「どや? ええマフラーやろ? 彼女から借りたんねん」と
言っていらしたそうです。
でも、ご両親が「講義に遅れるからもう早よ行き!」とせかしてしまった、と。
「あの時に、もう一分でも二分でも、マフラーの話、彼女の話を
聞いてあげていれば、・・・・・
息子はあんな事故に遭わなかったかもしれない」と、
今もなおおっしゃっています。




1996年に20歳の若さで、交通事故で亡くなった米村泰彦さんは
多くの歌を残しました。



音楽仲間やその歌をきっかけに知りあった人が集まり、
彼の歌を中心に、”命の尊さ”を歌う
コンサートが開催されました






2005年メッセ群馬開場 高崎シティギャラリーにて
♪米村泰彦さんが作曲した歌を泰彦さんの友人が歌う〜



群馬県生まれの元気な男の子 絃貴君 10才を想う
メッセージ集より
 

2005年2月23日、授業参観があった日の放課後、
絃貴は小学校前で21歳の女性が運転する車に撥ね飛ばされた。
ひき逃げ。ブレーキ痕はなかった。
 病院に運ばれた時には心肺停止状態。
心臓が動き、もう大丈夫。と思ったのは一瞬で、自発呼吸も出来ず、
意識も反応もなく、「脳全体の機能はしていない。
1週間〜10日が限界。」と言われた。
でも、3月22日の10歳の誕生日を迎えることができた。
2ヶ月半頑張ったが、5月9日、天国へ逝ってしまった。

出来上がったばかりの「2分の1成人式アルバム」の中には、

『ぼくの将来の夢は、
バレーボールの選手になることです。
 ぼくは、
今セッターをやっているけど、
6年生になったら
 アタッカーになりたいです。
 ぼくは、
バレーボールの選手になって優勝したいです。』


とあった。

 3月生まれでもクラスで一番背の高かった絃貴は、
すごいアタッカーになったよね。
お母さんやお姉ちゃんとも一緒にパスをして、
頑張っていたよね。
2月でも半袖・短パンで過ごしていた元気な絃貴。
明るく、可愛い絃貴。
ずっと、ずっと、大好きだよ。










私も大学時代だけバレーボールをしていましたが、
まったくセンスがありませんでした。
手首が固くてパスはへたくそ。
垂直飛びもぜんぜんだめでしたので、
アタックも満足に出来ませんでした。

それに比べて
絃貴君は
どれだけ優秀なバレー選手になっていたことでしょうか。
そして今、
どのぐらいの背になっていることでしょう。

そんなことを想像しながら、改めてメッセージ集を
読ませていただきました。

井上郁美 拝








NPO法人被害者支援ネットすてっぷぐんま主催
被害者支援講演会
    井上保孝氏 郁美氏 講演記録より
生命のメッセージ展ぐんま県庁
     「夢 希望 いのち未来へ」の紹介
               2008/2/16(土)
野村絃貴君はサッカーも上手な男の子
いつか 夢は 叶ったはず・・・・・

彼らの“生命が”奪われることが

無かったなら  

彼らは彼らの抱いた夢に向かって

歩み続け

今も

その笑顔は輝いていたはず