彼の曲、というか詞ですが、

家族にとって「ああ、あれはあのときの」と
思い当たるようなところが結構あります。

私が、まったく知らなかった歌は、「故郷の唄」だけなのです。

なぜか、この唄を私の前では歌ったことがありません。
家内と弟は聞かせてもらったといっていました。

私には、彼の「ふるさと」は私たち夫婦のことではないかと
思えてなりません。

当時付き合っていた彼女に
「だんだんうそつきになっていく」とつぶやいていたといいます。
ボーイスカウトの手助けを頼んだとき、
何度か「バイト」とか「音楽の練習」とかいって断られたことがあります。
そのときは、彼女とデートをしていたそうです。
「そんなことで気を使ってたのか」と思うと、
「気にしなくていいのに」と言ってやりたかったと、思います。





ちなみに「お月様がいいました」に出てくる「お父さん」は私です。
大阪のターミナルで、
偶然出会った外国人ミュージシャンのギター1本で、
電子楽器をかき鳴らしていた周囲のストーリートを駆逐し、
道行く人の足を一瞬にして止めた(私も止められた一人です)
感動を彼に話したことがあります。
それが、しっかりと詞になっています。
もっとも私の前で歌うときは、いつもここは飛ばしていました。
だから、亡くなった後に次男にテープを聞かされるまで
歌は知っていましたが、この詞の部分は知りませんでした。

死という言葉が頻繁に出てくるのは、
彼の悲しい生い立ちです。
小児喘息で幼少期に入退院を繰り返した彼は
何度も危ない淵まで行き、そして生還しています。

そして、
病室で知り合った多くの友人との悲しい別れを繰り返してきました。
中学を卒業する頃には、同じ病棟で一時期を過ごした子供で
生き残ったのは彼だけだったのです。
悲しかった別れ、それでいて楽しかった思い出もある小児病棟、
彼の中に「死」は目の前にある現実だったのです。
その頃の悲しい思い出を詞にしていましたが、
とうとう曲がつくことはありませんでした。
(追悼集に「無題」として掲載していましたが、気がつかれましたか?)

もうひとつよく出てくる「窓」という言葉は、
病院で皆で眺めた窓です。
私たち家族にとって窓の外が自由と健康、希望の先だったのです。

そして、いま家内がその同じ病院にいます。

息子たちが入院をしていたころの若い先生がまだ勤務していて
会いにきてくれたりしています。
これも息子の引き合わせかなと思います。


語り
雲の助君のお父さん





青い目玉の唄は、
彼が小学校4年のときに私が連れて行った
「デパート」での「カラクリオン」という名の
奇妙な展覧会のイメージです。
よほど気に入ったのか、
まだ次男が幼かったために
一緒に行けなかった家内を

次の日に
弟をおばあちゃんにあずけさせてまで、
引っ張っていきました。
そこで、山ほどの解説をしてくれたそうです。




「つないだ手を離して」は、
当時バンドを組んでいた女の子の話を聞いて
詞にまとめたそうです。
原案(体験談)は、友達の話に基づいていますが、
中身は100パーセント彼のオリジナルに書き換わっている、
と彼女はいいます。

「でも、律儀に私の作詞にしてくれているんです」とのことでした。
彼女のために書いた歌、彼女に歌ってもらうために書いた歌、
と、なくなった跡にメモが出てきました。

題して「○○子をプロ歌手デビューさせるためのプロジェクト」
この子は、この唄を歌うときいつも
「二度と戻ってこないあなた....」というところで
歌えなくなります。

追悼コンサートでも結局は最後まで歌えませんでした。