無名青年

2004年夏、アテネの地でオリンピックが開催される。
27歳の群馬県桐生工業高校卒業の青年が
マラソンのオリンピック代表選手に選ばれたと
4月のある日・・・
知った。

我が家の長男大助と同じ高校の出身で27歳と言うと、もしかして
同級生なのだろうか?

大助の持っていた薄黄色の表紙の名簿を開き同学年であろうかと、
その名前を探す

機械科M2に大助の名前はあり,
マラソンのオリンピック代表選手の名前は土木科にあった。

27歳の青年は、辰年生まれであろうか・・・・・・

同級生の青年の名は、地元では目に付く街角のあちらこちらに
活躍を期待され、
垂れ幕に晴れがましく名前が大きく書かれ
眩しくはためいているのを見掛ける。

青年は、いつの頃から走っていたのだろう。
いつかは・・・オリンピックの代表選手にと夢を抱き
桐生の街の何処かを走っていたのだろうか?

オリンピックの大舞台で走ることは、
彼の夢が・・・・叶うことに違いない。

目標に向かい走り切った時には、その名前は各方面で報じられ
多くの人々の知るところとなって、

地元では記念碑が建てられるかもしれない。

その有名マラソンランナーが練習のために走ったコースだった・・・
などと
学校周辺の道が紹介されるかもしれない。

高校の西側の山には桐生ガ岡公園があり
山越えをする道は勾配がきつく
陸上部の生徒が練習で
いつも走っていた。

その道はまた校則違反をした生徒が早朝マラソンをする道でもあった。

大助は「三ない」の校則違反をしたと言うことの生活指導の一環で、
早朝マラソンをすることになった。

母である私がなぜ、そのマラソンコースを知っているかというと
一回だけ大助と早朝マラソンをしたので知ってるので、
その勾配の「きつさ」は一回しか走れなかったことに尽きる。

公園がある山を周回する道は、
オリンピック代表選手を育てた厳しいさがあり

生活指導の生徒に課せられた厳しさだったとも言える。

同級生だったとしてもオリンピックの代表選手になった青年と大助が、
高校の時、
言葉を交し合うような友人であったとは思えない。

高校生活の三年間のすれ違う中で、オリンピック代表に選ばれた青年と
もしかしたら・・・・大助は、

マラソンコースを同じように走っていたのだろうかと、ふと考えた。

世の中の誰もが知る存在ではない我が家の長男山田大助は、
桐生工業高校の三年間の多くを
生活指導枠に置かれ指導日誌を書き
生活指導教諭に毎日日誌を提出していました。

そして・・・・・大助が日々綴った日誌が私の手元に残されました。

日々のつぶやきは大助が生きていた存在の証しです。
毎日の生活の時間割と大助の書き残した文字は、
大助の心根がしっかりと感じられ、
物事を自分なりに考え
人生を見据えたところがあったと読みとれ、
数々の言葉の中に大助自身を感じる
ことが出来ます。
桐生工業高校を卒業した春、18歳の4月・・・・・
大助は・・・・

無謀運転の車に命を絶たれ・・・
私たちは毎日の生活の中から“大助の姿”を失いました。

9年の歳月が経過したそれも虚ろでした。
大助の同級生の男子生徒は27歳の青年となって
オリンピックに出場すると知りました。

大助は18歳のままで、
そして・・・世に無名の少年です。

同じ年の青年の活躍を知り、
まぼろしの年齢を数え無名青年の姿を思う母がいます。


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