100m看板が見えた。
タコメ−タ−の針は10500hpmを指している。
5速全開!100m看板が横に並んだ。
カウルの中に縮めていた身体を思い切り起こし、
クラッッチレバ−を握り、アクセルをあおり、シフトを2速に落とすと同時に、
大径のツインパネルブレ−キを作動させる。
眼前に迫る170Rの第1コ−ナ−に全速力で突入。
夢にまで見た鈴鹿の第1コ−ナ−である。
全身に鳥肌の立つのを感じる。
第 2コ−ナ−は複合の130Rで、入り口より出口のきつい高速コ−ナ−である。
タコメ−タ−の針が生き物のように跳ね上がる。
クリッピングの手前で3速にアップ、目線はS字コ−ナ−の入り口をとらえる。
ゆるやかにアクセルを開け4速にアップ。
S字は全開で直線に近いラインをとる。
登りのS字を過ぎ更に登りの左コ−ナ−をカウルに身体を沈めアクセル全開!

25年前、当時鈴鹿の耐久レ−スは10時間でした。
耐久にでることがロ−ドレ−サ−の夢でした、
2年前より参加していたスプリントレ−ス。
それも筑波と富士だけでしたので鈴鹿の耐久にエントリ−するには
鈴鹿のスプリントに一度でも参加.出走する事が最低の条件でした。
筑波、富士ではそれなりに走れる様になったので
「いつかは鈴鹿の耐久を」実現させるべく、
72年5月の全日本鈴鹿大会にエントリ−したのである。
4月には受理書とゼッケンと参加賞のTシャツが届いた。
昼間は練習で筑波通い。
夜はプラスチック成形の仕事をしてすべてロ−ドレースの毎日でした。
協会からの受理書が届いてからの毎日は更に練習に熱が入りました。
その頃使っていたのは、市販レ−サ−TD-2で
神戸の黒田さんより譲っていただいた栄光のマシンです。
ちなみに筑波サ−キットの自己ベストは1分15秒と
現在のラップタイムと比べれば「遅い」の一言ですが、
これで鈴鹿の予選は何とかなるだろうと思い、
甘い考えで練習をかさね、5月の段取りを始めました。

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